姿の見えない人たち、声を挙げない人たち

孤独から逃げず、自分独自の疑問を大切に抱き続けたジュエルっ子。(©Miyaki Inukai)
孤独から逃げず、自分独自の疑問を大切に抱き続けたジュエルっ子。(©Miyaki Inukai)

 私は、「姿がない」、「声を挙げない」人たちの物語を描いて行きたいと思っています。それってどういう人でしょうか。私がお話を書いた『ジュエルっ子物語』(幻冬舎)という絵本を例にしてみます。

 

 このお話の主人公は、何かを探している人。なぜかは分からないけれどいつも足どりは重く心がからっぽの人。息はしているけれど、生きているという感じがしない人。そして、もう一人の主人公・ジュエルっ子は、「女の子に生まれて来たけれど、なぜ男の子じゃないんだろう」という疑問を抱いている人です。こんな思いを持っているなんてことは表面から絶対分からないですよね。このような状態を「姿が見えない」、「声を挙げない」と言っています。私はこの見えないものを見えるように、聞こえないものを聞こえるように表現したいと思っています。それが私の仕事と感じています。存在するものをまるで存在しないように扱うというのは辛いものです。そのように生きていても「生きていない」のですよね。生きていないのに生きているふりをしながら生きていかなくてはいけない。こういう生き方がどれだけ心身に負担がかかることか。このままでは燃え尽きてしまったり、ポッキリ心が折れてしまったり。取返しのつかないことになってしまうと思うのです。

 

 元々私は、カウンセリングルームや相談室と名前のついたところで人が来るのを待っていました。しかし、そのスタイルでこの人たちと出会えるでしょうか。きっと出会えないと思ったのです。出会うためには、自分が率先して姿を現すこと。私自身の抑圧しかねないところ、極端な言い方をすると半分自分を殺してしまっているところをさらすことにしたのです。すると、そおっと「その人たち」とふれあうことができます。きちんと見ていてくれているのですね。ご自身と共鳴するところを。

 

 先日お話した経営者交流会では、大人数でタイトな時間の中、ポジティブな自己表現をする必要があります。とても心のことを話す時間はないだろうなぁと思っていました。しかし、それも私の思い込みでした。きちんと表現すべきことをしていれば、呼び止めてくださる人がいます。それはとても大切なコンタクトです。改めて思いました。私は社会のスピード感に合わせる必要はない。アウェイ感、孤独感、マイペースを貫き、自分の空気感を大切にする。そうすると私の仕事を必要な人が気づき、近づいて来てくださるのですね。

 

 私の「半分自分を殺してしまっているところ」とは、表面的には性的マイノリティというセクシュアリティのことに見えますが、実は思春期の頃から始まった「強い予期不安」でした。不安を感じ過ぎる自分を責めて恥ずかしく思い、そんな自分をいないものとする。長年のその生き方が、私を私ではないもののように扱わせました。しかし、性的マイノリティという性質が私を救ってくれました。セクシュアリティについて私が感じる美しさや感動が私の命綱になったのです。世間は、性的マイノリティをネガティブ方向に見ることが多いのですが、私にとっては自分の感性の源です。そういう世界に身を置いています。