生ぬるい泥沼が心地良いのかも


 私の物語の書き方は、基本的にキーボードでお話を1文字ずつ打ち込んで行きます。そして、画面上に言葉が出現すると、もうこれは自動的に、瞬時にその文脈にふさわしいものかの自分的チェック機能がかかります。チェックに引っかかってしまえばすぐに打ち換えることもあるし、何度換えてもいまひとつピンと来ない場合は、そのまま保留にして先へ進む場合もあります。苦しい、苦しい作業です。何が苦しいって、とにかく面倒くさい。チェック機能(別名・推敲)は、時に10回も20回も30回もかかり、書いた文章が多くなればなるほど時間もかかります。つまり、どんなに書き進めても満足感や達成感になりにくく、大変さだけが大きくなって行く仕組みなのです。

 

 そう言えばこれ、私の人生に似ています。人生が大変だったという自分史的なことではなく、他の人がするりと通り過ぎることを、引っかかり、止まり、過剰に辛く感じ過ぎ、大変なものとしてしまう。外は凪でも心は大嵐が吹き荒れて(吹き荒らして)います。私の人生、どことなく物語調です。

 

 要は、そうしたい。そうしたいんだよ。と、よくつぶやいています。何なら、小さく叫びます。「そうだよ! 大変にしたいんだよ! ああ、そうさ!」。ただの日常に引っかかっている内に、周りの人は私を置き去りにして、先に行ってしまいます。時には走って私のところに戻って来て「私も実はしんどかったんだよ」と打ち明けてくれます。そこで、ハッと「私だけじゃないんだ」と気づきます。そういうことが何度もありました。でも、私はどこまでも自意識の人です。自分だけが大変だと思ってしまう。思いたい。顔を上げて周りを見れば、みんな同じことを感じている。言わないだけ。気づかないだけ。客観的に自分を見て、周りに手を差し伸べましょうと言われる。でも、私は、この生ぬるい自分の中の泥沼にいたい。そこにドラマがあるから。そこに私の表現欲があります。そこを言語化して世に送り出し「面白い」と言われて初めて、自分を客観視できるのです。この手続きをどうしても踏みたいみたいなのです。