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【小説】きゅうりなんてと言わないで



 その夜、私たち夫婦はバンクーバーのフュージョン料理レストランにいた。私たちは、昼間に市内の教会で結婚式を挙げたばかりだ。挙式後のメモリアルディナーとして、多様民族都市にふさわしいこのレストランを選んだのだった。

 

 内装は高級フレンチ風だった。スタッフにイスを引いてもらい席に着く。私は英語がよく分からない。夫がその店で一番注文されるというコース料理を選んでくれた。メニューをスタッフに返し、私はようやく一息ついた。挙式の日、花嫁の朝は早い。私は早朝から今まで、まともに食事をしていなかった。時差ぼけも回復していない。体力は限界だった。しかし、やっと、全て、無事に終わったのである。

 

 夫のシャンパングラスに自分のものをそっと当てると、「リン」と優しく鳴る。冷えた液体がのどを流れ、たどり着いたところで、かっと熱を持つ。その熱に私の頬も素早く反応する。

 

 身体が緩み出した頃、一品目が運ばれて来た。夫が「きゅうりのジュレ」と訳した。

 

 きゅうり? と私はいぶかしく思った。メモリアルがきゅうり? こめかみがぴくんとする。そのごちそうらしくない食材を聞いて、せっかく緩んだ神経が再びたかぶり出す。それは、直径3~4センチ、高さ7~8センチの円筒形のガラス容器に入っていた。薄黄緑色の砕かれたゼリーが、照明を反射し光っている。この小さな宝石がきゅうりだとは信じられなかった。器を鼻に近づけて、すんすんと嗅いでみる。しかし、レストラン内は肉や魚を焼く匂いが立ち込めている。嗅覚を邪魔され、私はいらついた。

 

 何も確かなことを得られないまま、添えられている細いスプーンをガラス器の中に差し込んだ。浮上して来たスプーンには、黄緑色の輝きがちょっぴり乗っている。この細いスプーンでは、その量を持ち上げるのが限界だ。私は、このちまちました作業に、ますますいらついて来た。しかし、これを通過しないと次の料理に移れない。唇にスプーンを運んでジュレを吸い、舌に乗せる。それはすぐに液体と化し、のどに流れた。

 

「きゅうり!」

「きゅうりだ」

そうとしか言えなかった。

 

「きゅうりだね」

夫が言った。

 

 その後、

「出汁よ! 出汁だ」

声がはしゃぐ。

 

「出汁だね」

夫が言う。

 

 その小さな料理は、私が慣れ親しんだ野菜と風味で仕立てられていた。私の気持ちは、日本の我が家に飛んで行く。

 

「これが、とても、とても、好きだわ」

「ボクもだよ」

 

 英語の準備もせず、浮ついた気持ちで来てしまったカナダ。この街のことも挙式する教会の由来さえ、何も調べずにやって来た。日本語と離れた数日間。背伸びして取った高級ホテル。何時間もかけて着付けたウェディングドレスとヘアメイク。カメラマンのシャッター音。このお店の煌びやかな照明。

 

 心細さがこみ上げた私は、たまらず目の前の夫を見た。


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