僕は、多和田先生が、好きだ。
今日は、月に2回実施している多和田准教授の手技研究会の日である。先生は、鍼灸学科・東洋医学ユニットの中でも、東洋医学と西洋医学のバランスを重視し、35歳という若さで数多くの研究実績を挙げ、学生の人気も高い。学生の1人を患者役とし貴重な先生の手技が披露される。学生たちは、先生のわずかな動きさえ見逃すまいと、息を殺して見守っている。
僕は集団から少し離れて、先生の横顔を見ていた。マスクをつけているが、ゆるやかにウェーブがかかった前髪とすっきり刈り込んだ後頭部、黒縁の眼鏡がアパレル業界を思わせる。実際、先生とは、ファッションの話題で盛り上がることもある。
先生は、いつものように、学生ひとりひとりに目を向け、全ての人に浸透するよう気を配りながら、時にはユーモアを交え穏やか話す。その目は、いつも微笑んでいる。
やはり、僕は、多和田先生が、好きだ。
「多和田先生、後で研究室に寄ってもいいですか?」
研究会が終わったところで、僕は声をかけた。先生は目だけで微笑んで頷いた。
僕は、単位を全て修得しているので、もう大学に来る必要はなかった。今日の研究会は、特別に見学扱いで参加していた。今日、僕は、先生に会うためだけに来たのだ。
「もうここに来るのは今日が最後だよね。早いな。そうだ、一ノ瀬くんにあげようと思った本が何冊かあるんだ。多少古いんだけど、鍼灸なんて基本は変わらないから。買うと高いしね」
友だちのような口調だ。
僕は、意識的に、体温を感じるぐらいの今までにない距離まで先生に近づいた。幸いにも、先生はその距離に違和感を持っていないようだ。
「先生」
書棚から本を取り出していた先生は、「うん?」と僕に顔を向けた。
「夢が、ないんです。僕には。何も。卒業はできます。就職も決まりました。それでも」
さすがに、こんなこと、教えを乞うた先生の目を見ながらでは話せなかった。目をそらしながら言った。
「これだけが、僕の財産です」
先生の講義で書きためたノートを、先生の机に並べた。それは、10冊に及んでいる。このような行為を、先生はどう思うだろうか。でも、僕には後がない。今日が先生に会える最後の日なのだ。
先生は驚いた様子で1冊ずつ次から次へとめくり、時には手を止め、ゆっくり読んでいる。中は細かい黒々とした文字が埋まっている。
「すごいね。こんなノートを見たのは初めてだよ。僕が持って帰りたいぐらいだ」
そして、先生はノートを全冊揃えて重ね、
「僕にも夢はない」
と、僕を見た。初めて「僕を」見ていた。僕は、息を飲んだ。
「夢がなくて、先生のように実績を出せるのですか」
「やるべきことが目の前にある。だからやる。目の前にないものは求めない。その繰り返しだよ」
「そして、だいたいのものは、目の前にない。一ノ瀬くんだって、逃げ回っていただろう。僕から」
僕は、はっとした。これが先生だった。目の前にあるもの全てに目を向ける。どんな存在も否定しない。そんな確信があって、好きになったのだ。言い訳をしてはだめだ。目の前に先生がいる。今の僕にはそれが全てなのだから。
僕は、生まれて初めて、目の前にあるものを求めようと決めた。
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